生  活

堀川ハナは65歳。3年前に夫に先立たれ、息子の許で一時生活していたが嫁との仲が上手く行かず、一人住まいをしてるときに知り合ったのが今の夫である堀川作治であった。

デパートで買い物をしているときに「可愛い犬連れてますね」と声をかけられたのが始まりだった。

作治はは建設会社を経営していると言った。
「不動建設」、東京に本社のある大手ゼネコンの子会社と言う。
10年前に妻に先立たれ、一人住まいをしていると言う73歳の男である。

ハナは今日の銀行でのことを考えていた。 
夫の言うことも一理ある。第一、夫は会社経営を通じて銀行のことは良く知ってる。そういえば、あのときの相手が作治が言ってた「北進銀行の田中」だったんだ。

ハナは作治の言っていたことを思い出していた。
「バブルがはじけただろ、それで零細企業はことごとく潰れたんだ。それで今まともに儲けてるのは大手だけなんだ。ほら、あの大島建設、日本で一、二位を争う建設会社あるだろ、俺の会社はその下請けなんだ。だから経営はすごく上手く行ってるんだ。緑区と江島区に今ビルを建設中だし、小さい工事なんかでは個人の家を今20棟ぐらい手がけてるんだ」初めて会った時そう言った。
事実色んな工事関係の帳票があった。
そういえば「北進銀行」に私の1億5千万円の口座があるのだ。作治が開設してくれた口座。あれは半年前。 「手形が決済になった。3億の純益だ。お前にもやる。いますぐに開設するぞ」
作治はそう言って受話器を取った。「北進銀行ですか。田中さんいますか」
「おう、良助か俺だ。うん、そうだ。それで今日3億決済になっただろう。振り込み口座は保留にしてたけどな、あれ、俺の口座に1億5千万円入れておいてくれ。それでな、残りの1億5千万円だけどな、そっちは俺の妻名義にしておいてくれ。そう、名前は堀川ハナだ」
「あなた、本当なの」1億5千万円なんて大金は、ハナは普通の人がそうであるように見たことも聞いたこともなかった。半信半疑だが不思議と聞いてて悪い気はしなかった。そう感じることは殆ど信じていたことになるのだろう。
「当たり前だろ。こんなことで嘘なんて言える訳ないだろう」
「通帳はいつ来るの」
「お前は本当にバカだな。通帳なんて家に置いたら危険だろう。貸し金庫に決まってるだろう。銀行の」
そう言われてハナは自分の無知を恥ずかしく思った。貸し金庫、銀行で見たことはある。昔からあれは何だろうと思っていたが先日息子と話していて何だかはじめて分かったものである。夫は何時も利用してたのだ。そんな世界の人なのだ。





「おい、お前、キャッシュカード持ってるか」唐突に作治は聞いてきた。
「あるわよ」
「ちょっと貸してくれ」
「なんで」
「俺今までキャッシュカードって持ったことないんだ。だから一度持ってみたいんだ」
「なんで作らなかったの、不便だったでしょ」
「みんな会社の名前で決済してきたから必要なかったんだ。今カード時代だからちょっと持ってないと格好悪いんだ」
「はい、これ」ハナは何の疑いもなくキャッシュカードを夫に渡した。それきりハナはキャッシュカードのことは忘れた。





作治は毎日7時には家を出た。建設現場を回ってると言う。社長自ら回ることが現場の士気を高めると言っていた。帰りは何時も6時頃だった。酒は良く飲み、飲むと快活に喋った。しかし、気の短いところもあった。一度腹を立てると、半狂乱のように興奮し怒鳴り散らすことがあった。

「おい、お前、生命保険入っているだろう。何のために入ってるんだ。体も健康なのに」
「何かあったときのために決まってるでしょう」
「何かって、何かあった時には俺が面倒見るに決まってるだろう。それに何だ、死亡時に800万円しか入んないんじゃないか。そんなゴミ金のために毎月掛け金払ってるなんてバカくさいな。もう止めれ」
「そんな、昔から入ってるから解約なんてしたくない」
「俺が面倒ん見るって言ってるだろう。俺の言うことが信じれないのか」作治の機嫌が悪くなってきた。
「分かったわよ」ハナは答えた。
この人が面倒見てくれると言ってるから、考えてみたら、保険など必要ないと思い始めていた。それに作治の体のことも心配だった。
「俺は心臓が悪いんだ。狭心症みたいなんだ。だから興奮すると発作が起きるんだ。お前と一緒になる1年前に大きな発作を起こし死ぬ思いをした。だから余り俺を怒らせないでくれ」と言ってたから、ハナは作治の機嫌が悪くなると言いたいことも言わず、宥めるのに必死になっていたのだ。

結局実印を作治に預けた。それっきり保険のことは忘れた。 」


生活は苦しかった。毎月、作治が持ってくるお金は10万円だけだった。だから、米を買うにも事欠く時もあった。
作治は「現金を持つのは俺の主義じゃない」と言って殆ど財布には金を入れていないようだった。ハナは流石にお金を残す人は違うものだと思っていた。

お金が足らなくなると、やはり作治に相談した。ところが作治はお金を持って来ることはなかった。
「俺は何を食っても良い、なんとかすれ」と言った。


ある日、作治は「北区にいい物件が手に入った」と言った。二人で住むための新居の為に購入したと言う。倒産した会社の破産整理の為に売りに出していたもので、どこも足元を見て叩いていたので、作治が良い値段で買ってやったら、売主は涙を流して喜んだと言う。

ところがいくら経っても引っ越す気配がなかった。ハナは何度も「いつ引っ越すの」と聞いたが、その度に具体的な日にちを言うが、いつもその当日になれば急な仕事が入って都合が悪くなるのだ。

このときもハナは社長ともなれば自由になる時間はないものなのだと思った。見に行くから場所を教えてと聞いたことがあったが「家が逃げる訳ないだろう、ちょっと待ってれ」と言われ断念した。