作 治

堀川作治は刑務所を後にした。
窃盗で懲役4年の判決を受け、服役していたのだ。窃盗で4年とは長いほうだった。それと言うのも、若い頃からの累犯でやむを得ないものであったのだ。
身元引受人などはいないから満期を刑務所で過ごした。これも、天涯孤独の作治にとってやむを得ないものと諦めていた。
しかし、そのために半年も出所が遅れたのは良い気はしなかった。 満期で出所したため「厚生保護会」に出向く必要はなかった。


先ずは兎も角寝るところを探さねばならなかった。
刑務所で蓄えたお金が僅かながらあったからそのまま不動産会社に足を運んだ。



アパート探しは上手く行った。
普通70才も半ばになっていれば貸し渋りに会うものだが作治の場合上手く行った。

大家としては老人の単身入居となれば、死亡時に困るのだ。死人の後に入居者がいなくなると言うよりも、その後始末をしなくてはならないから二の足を踏むのだ。

それなのに作治はすぐに借りることができた。それと言うのも、安く誰も見向きもしないボロアパートを選んだこともあったが、歳を63才と偽ったことが功を奏したようだった。
それほど作治は若く見えた。

アパートを借りても生活のあてはなかった。もう刑務所暮らしはしたくなかったから、悪いことをする気はなかった。
やむを得ず働くことにした。 働き先もすぐに見つかった。土木作業の日雇いである。しかし、長続きはしなかった。いくら歳を誤魔化すことはできても、70才の実年齢ではきつかった。それにもまして、怠惰の虫が目を覚ましたのだ。


今までもまともに働いたことはなかった。戦時中、陸軍学校を出たものの、戦後は仕事と言えば土木作業員ぐらいしかしていなかった。その合間に、窃盗、ジゴロ、結婚詐欺などをして暮らしていたのだ。

今となっては失うものもなく、また、今更心を入れ替えて働く必要もなかった。出所後すぐに働く気になったのは、ひとえに刑務所に戻りたくなかったことと他にすぐに金を得る方法が見付からなかったことに他ならなかった。

悪いこともせずに、苦労もせずに金を得る方法はないだろうかと作治は考えた。

そのとき作治は閃いた。生活保護がある。

昔作治が働いていたときに、同僚で病気になった人がいた。そのとき、会社の社長が市役所かどこかに行って手続きをしたことを思い出した。そいつはそのまま仕事には復帰しなかったが、作治とはしばらく付き合いがあった。退院後も働いている様子がなかった。当時のあいつでさえも受けれていたのだから、今の自分も受けれるに違いないと思った。よしんば受けれないとしても何らかの方法を聞くことができるだろうと思っていた。


市役所には戸籍や住民票を取りに行ったことしかなかったから、保護課というところがあることをはじめて知った。 いろいろ聞かれたが、手続きはそれほど難しいものでなかった。
作治は殊勝な顔をして担当官の質問に答えて行った。作治は口は上手かったが、その上手さを発揮させる必要はなかった。要は困っていることを表現すれば良いのである。現実に困っているのだから、嘘をつく必要がなかったのだ。
面接で一番困ったのは申請書等の色んな書類を書かされたことである。字など書いたことない作治にとっては拷問にも等しいものだった。字が分からないと言ったら「ひらがなでいいです」と言われたがこれも作治の癇に触ったた。

申請が終わると担当官は「地区のケースワーカが後でお宅をお邪魔します」といった。
(やれやれまだ手続きがあるのか)と思ったが背に腹は替えれなかった。 地区担当者は、また根掘り葉掘り聞いてきた。作治は一通り答えた。
担当は、「生活保護とは最後の生活手段で自分で努力してどうしても生活できないときにはじめて適用になります。ですから、あなたもやらなくてはならないことはすぐ行ってください」と言ってきた。 すかさず作治は言った。
「私のやらなけりゃならないことは何ですか」
「資産を売却したり、扶養義務者に援助をお願いしたりです」と言って担当も気が付いたようだ。
と言うことは、作治は何もやらなくて良いということなのだ。
資産もなく、天蓋孤独なのだから。作治の場合高齢で働く必要はなかったのだ。

保護の決定は程なくなされた。作治はほくそえんだ。 
しかし、12万円の保護費は満足できるものではなかった。
飲み屋、パチンコに使えば一瞬で消える金額なのだ。

作治の悪い虫が動き始めた。